この頃は「美」に夢中になっている。
美に夢中になれる理由は、私たちに性欲や食欲があるように、美が欲望の一種だからである。
とはいえ、性欲や食欲よりも、美欲は数段と高みの欲望に位置されるのではないかと思う。
というのは、美欲は満たされても賢者タイム(無気力感)のような時間が訪れないからである。
また、ドイツの哲学者ハルトマンの文を紹介している森鴎外いわく
たいてい人の福と思っている物に、酒の二日酔いをさせるように後腹の病めないものは無い。
それの無いのは、ただ芸術(美)と学問との二つだけである。
『妄想』
とのこと。
なるほど「性欲」も「食欲」も「物欲」も「金銭欲」も満たされたり得られたりしたら酒の二日酔いのような気分にさせられてしまう。
これらの欲望の背後には失われる苦痛も存在するから恐ろしい。
ところで、テーブルの上にごちそうが並べらていたら、たいていの人は食欲をそそわれ、思わず食べたくなるのではないだろうか。
性欲も同様ではないだろうか。
前置きが長くなってしまった。
この記事に書かれていることは、誰もが美しいと感じる「普遍的な美」は存在するのかという疑問である。
この疑問のガラスは今も曇っているが、私が出した結論は「美は不確実である」ということだ。
普遍的であるが普遍的ではない美。
美は不確実である。
普遍的といえば普遍の性質を失うし、普遍的ではないといえば普遍の性質をおびる。
現在のところ価値観(美的感覚)に絶対はなく、価値観をはじめ物事は相対的に規定されているという考えが主流である。
しかし「絶対はない」といって絶対の存在を認めることは、裏を返せば、絶対はないことを否定している(絶対はある)のである。
つまり普遍的な美の存在とは不確実なのである。
美の不確実性
仮に普遍的な美の例をあげるとすると、一貫性がある。
人にも一貫性は見出せるし、物体にも幾何学模様の一貫した法則を見出すことができる。
ただ考えてみたら、一貫性の世界が当たり前の人にとっては、一貫性に美を感じるであろうか?
たとえば、日常が黄金律であふれた世界で生きる人が、黄金律で描かれた模様を見て美を感じるだろうか?
少なからずそうではない。
そうではないと言える理由は、私たちは「飽きる」という性質を持つからである。
これは普遍的な美の存在を認めた先に否定される美の不確実性なのである。
はたまた美は二面性を持つのだろうか。
普遍的な性質もあり、普遍的でない性質もある、と。
これは美がそれだけでは存在しないことを物語っている。
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