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【三島文学】『太陽と鉄』の解説と発見|芸術を知る

太陽と鉄』は三島由紀夫氏の思想と文学のあり方を表している重要な書である。

その解説とそこから得られた発見を本記事にて述べたいと思う。

読者の方へ『太陽と鉄』の新しい読み方、新しい切り口を提供できれば幸いである。

『太陽と鉄』解説|三島氏が言いたいことは2つある!

『太陽と鉄』にて三島氏が言いたいことは以下の2つがある。

  1. 言葉のまったく関与しない領域で現実に会うという欲求ー自らの存在を証明すること
  2. 生活の論理の循環構造を逸脱すること

①言葉のまったく関与しない領域で現実に会うという欲求ー自らの存在を証明すること

本文中で三島氏が述べているように

  1. 「言葉のまったく関与しない領域で現実に会うという欲求について」
  2. 「自らの存在を証明すること」

を本作で表したいことは明らかである。

三島氏がいう「言葉のもつ迷信的な機能(言葉が現実を腐蝕する作用)が取り除かれたときに、全的な存在に参加していた」という節と「同一性を疑う余地のない地点に立った」という節とから言葉のまったく関与しない領域で三島氏は自らの存在を証明したいことが読みとれる。

言葉のまったく関与しない領域で自らの存在を証明したい理由はなにか?

ふたつの理由がある。

ひとつは幸福感を得るためであり、もうひとつは芸術を創るためである。

言葉が関与することで現実は腐蝕される理由

三島文学を読み解く上で、以下は絶対に知っておかなければならないことである。

言語学者ソシュールのいう「シニフィエ(意味される対象)」と「シニフィアン(意味する名称)」の記号学である。

これは言葉による認識により世界が形成されることを意味している。

たとえば、形としての「りんご」という対象を私たちは「りんご」という名称で言い表しているが、別に「りんご」という名称で言い表さなくても「ぶどう」という名称で対象を言い表すことはできるわけである。

こうした「シニフィエ(意味される対象)」と「シニフィアン(意味する名称)」の先にある、言葉による現実の腐蝕を免れた世界の発見を、別世界の感覚の発見を、肉体による言葉で発見したい、あるいはできないだろうかと模索しているのが三島氏であるだろう。

人間の肉体というものが、鍛えようによっては、どんな思いがけないところに、どんな思いがけない楽園を発見するかわからないという点だ。

常人の知らない別世界の感覚の発見……。酒やアヘンとは反対のものだが、スポーツがやめられなくなるのは、やはりそれがあるからであろう。

『美と力の接点』『三島由紀夫スポーツ論集ー合宿の青春』にて

言葉を避けて存在するために

三島氏が存在しているのは言葉による記号学ゆえの保証である。

「三島由紀夫とは誰だ?」という問いに対して

「三島由紀夫とは軟弱な体で、東京在住で、GIカットの……」

などと答えていくと三島由紀夫というひとりの人、つまり三島由紀夫のアイデンティティが確立されていき、三島由紀夫が言葉により存在するようになる。

三島由紀夫を含めて、私たちは言葉により存在しているのである。

あたかも最初から自然に私たちは存在しない。

私たちは客観的に存在していないのである。

言葉は現実に対しての腐蝕作用を持っているために、三島氏は自らが存在する保証を言葉以外のなにか別の方法に頼らざるを得なかった。

自らの存在証明は筋肉

なにか別の方法とはなにか、それは筋肉による存在の保証である。

言葉による存在の保証を拒絶したところに生まれたそのような存在は、別のもので保証されなければならなぬ。それこそは筋肉だったのである。

強烈な幸福感をもたらす存在感は、いうまでもなく次の一瞬には瓦解したが、筋肉だけはあらたかに瓦解を免れていた。

(筋肉は)なんら(意味される)対象の要らない、ひとつの透明無比な力の純粋感覚(存在)に変えるのである

()内は筆者

力による純粋感覚は、言葉による抽象化を絶対に拒否して、つまり言葉の腐蝕作用を取り除いて、その存在を保証(証明)する。

しかし筋肉による存在が保証されるためには破壊(すなわち死)がなければならない。

なぜなら、この筋肉が存在することを証明するためには認識(見ること)が必要であり、

「りんごの芯・内部」から「りんご自体・外観」の存在を認識・見るためには「りんご」という形を破壊しなければならない。りんごは死ななければならない。

また三島氏は芸術作品の定義に「力を内包する必要がある」と述べている。

最期まで三島氏は幸福感を追求するために、自らの存在を証明するために、また芸術家であるために、自らを破壊(死)しなければならなかったことが『太陽と鉄』にて窺われる。

②生活の論理の循環構造を逸脱すること

「②生活の論理の循環構造を逸脱すること」については『太陽と鉄』を解説する佐藤秀明氏の意見と重なるため、佐藤氏の意見を引用させていただく。

太陽と鉄が異議を有するのは、現代社会が生活の論理に偏重して、そこから逸脱する論理を視野に入れないという傾向に対して、「生活」の論理を剥ぎ取ったところの「思想」のレベルで、自己の根源的欲動に筋道をつけようとする生き方が示されているところにあると思う。

これは解説というよりは解釈である。

三島氏は、スポーツの目的を生活の論理により導かれる「健康」と結びつけるのではなく、思想の論理により導かれる「死」に結びつけている。

生活の論理とは、たとえば数学を考えてみる。

数学を学ぶ理由・目的を生活の論理で導くと、どこどこの学校に進学するためとか、生活に役立てるためとか、生活が根底に潜んでいる結論になる。

思想の論理で導くと、数学を学ぶ理由・目的が真理の探究であるとか、芸術の欠落要素の一端を補うためとか、生活に直接的な関係のない思想が根底に潜んでいる結論になる

生活の論理に偏重しすぎることで機械的合理的な思考方法しかとれなくなり、そこでは生きる意義も見えず、個性は押し殺されて、社会の歯車のひとつとなっていることだろう。

『太陽と鉄』発見|芸術を知る

生活の論理をもう少し詳しく考えてみると「大衆思考」に行きつく。

大衆思考とは大衆が、みんながみんな物事を同じように考えることを意味する。

芸術に対する見方、大衆思考を三島氏は危惧しているように思われる。

というのは『堀江青年について』において三島氏は

「芸術に対する大衆社会化反応の進みゆくおぞましい時代をも暗示する」

と述べている。

この言葉を読み解くために以下の2つの句を紹介させていただく。

  • 「芸術にはどんなことをしても破滅への衝動(死)があるように思われる」
  • 「芸術の根本にあるものは、人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、ギョッとさせるということにかかっている」

上記は『わが魅せられたるもの』においての2句である。

「生活の論理」に偏重した「大衆思考」から芸術は生まれないのであり、「思想の論理」で破滅への衝動(すなわち死)を通り越すことによって芸術は生まれるのである。

三島氏による『太陽と鉄』は私を健全な思考から目覚めさせてくれた作品であり、まさに芸術と呼べる作品であると私は発見したのである。