自己実現欲とは、ある目標を達成しようとする欲望である。
この目標を達成すると何事にも変えがたい快楽が得られる。
最近、この自己実現欲について疑問に思ったことがある。
それは「自己実現欲というのは本質的な欲望ではない」「自己実現欲は美欲に変えて解釈ができる」ということである。
人間の欲望というのは本質的な欲望であるほど強い。
たとえば本質的な欲望には「性欲」がある。
この「性欲」を満たすために自分自身を高い地位において、衆目を得ようとするのが、間接的な欲望である「金銭欲」である。
もしも本質的な欲望がすべて満たされていたら間接的な欲望を満たそうとする理由はない。
自己実現欲は本質的ではなく、上の例でいえば、「性欲」を間接的に満たす「金銭欲」に値する。
では自己実現欲が間接的な欲望であるとしたら、本質的な欲望とはなにか?
それが「美欲」である。
1. 一貫性
自己実現欲が満たされるときは達成感がある。
この達成感の正体は美欲を満たすための「一貫性」である。
たとえば、自分で決めた戒律(1日500円生活でもなんでも良い)にしたがって行動できたとき。
そのときに多くの人は快感(満足感)を得るだろう。
これは自分で決めた戒律を守ったという一貫性により「美欲」が満たされたことを意味する。
以上は対自的な例であり、以下は対他的な例である。
人がなにかに惹かれる要素には一貫性が含まれる。
たとえば黄金律や対比でつくられたモノ。
そのモノを見て美しいと感じるのは、やはり一貫性があるからではないだろうか。
また、なにか一貫した信念を持っている人に対して、私たちは魅力を感じざるを得ない。
この一貫性は、陸上競技の1500mで優勝するために設定した「プロセス」にあたる。
一貫性のほかにも、無いものを得ること(好奇心の一種)も「美欲」を満たすと考えられる。
2. 無いものを得ること
人はすでにあるものよりも、無いものから美を見出す。それが美欲を満たす。
たとえば高層ビルの立ち並んだエリアに住む都会人が自然の豊かな田舎へ足を運ぶと、その自然な風景に美を感じる。
しかし自然の豊かなエリアに住む田舎者にとっては、その自然な風景に美を感じなくなってしまう。
両者の違いは、都会人にとっては自然の美しさは身近に無く、田舎者にとっては自然の美しさが身近にあることである。
(※この無いものはいま無い純粋なものに限る。カバンや財布や時計などではない。)
自己実現欲は、いま無いものを手に入れようとする(得ようとする)ために働く。
1500mで優勝するというのは、今までの経験に無いことである。
これは「美欲」を満たすための衝動である。
もうひとつ、美欲を満たすための重要な要素に「求心的な探求」がある。
3. 求心的な探求
たとえば遊びの領域のひとつである「模倣」。
「模倣」には日本の伝統芸能である能楽の心得(自己自身への求心的な探求)が求められる。
これは対他的にも対自的にも美的感覚の一種である「遊び心」をくすぐる(感じさせる)ために必要だからであろう。
自己自身への求心的な探求は、世阿弥の「初心」の精神であり、この精神は千利休の「わび」で継承されている。
それまでの豪華な茶会とは対照的に、千利休は自己を狭い空間へと押し込めて、自己の内向きな求心的な探求に徹した。
なぜなら自己の求心的な探求が美欲を満たすために必要であったからである。
それがために自己の求心的な探求が必要である芸術は人々の心を魅する(美欲を満たす)のではないだろうか。
なるほど陸上競技の1500mで優勝するためには自己自身の求心的な探求が必要不可欠である。
まとめ
以上の「美欲」を満たすための「一貫性」と「無いものを得ること」さらに「求心的な探求」から、私はマズローの5段階欲求説の自己実現欲はより本質的な欲望である「美欲」に変えて解釈ができると思う。
※補足説明
たとえば自己実現欲を陸上競技の1500mの全国大会で優勝することにする。
それが達成できたとき。
ゴールテープを一番に切ったときに何が得られたのか?
ただ一番にゴールテープを切っただけじゃないのか?あのちっぽけな空間の中で。
それを喜んでガッツポーズするとき、欲望が満たされたとき、なにか見えない鎖から自らが解放されたときの本質はなにか?
やはり自己実現欲というのはフェティッシュな性質を帯びている気がする。
本質的な欲望ではない。
虚構がつくりあげた催眠術、もしくは美欲に通じる間接的な欲望としか思えない。
1500mの全国大会で優勝したときには美を感じているのではないか。
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